昭和43年12月1日 朝の御理解
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けことができるぞ。」
無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受ける事ができるぞと。ここのところを、私共の、おー、願いとしないものはありません。みんなが、ここんところを、願っております。無事達者、子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさり、去年よりも今年と、ね。親の代よりも、子の代というように、代まさりのおかげを受けるという事を、誰でも、おー、願っておるのですけれども、なかなか、そうはいかんのです。それには先ず、神のおかげを知らぬからと仰っておられる。神のおかげを知らなければいけない。同時に、神の大恩を知らなければならぬ。えー、信心させて頂きよって、神様のおかげというものを、知らぬ者はなかろうとこう思う。
昨日、おー、少年少女会が、えー、ぶいん、あれば、春秋夏冬ですかね、年に四回かなんか、まあ、出すのですか。あの、実りという文集が昨日出来てきた。 それを、昨日、ここへ持ってまいりましたから、見せてもらったんですけれども、本当にあの、私、有難いと思うことは、こうやってあの、おー、土曜の晩から、夜の御祈念を頂いて、そして、えー、朝の御祈念を頂いて、一晩は、教会で過ごさせて頂いておる、もう、この人達が中心ですねえ、その、おかげを受けておるということは。もう、それもですね、もう、的確にというですか、その、もう、本当に、子供ながらにも神様がこうして打ち込めばおかげを下さるんだなというものを、あの、文集を見せてもらうと感じますよ。この前の文集、春ですかね、でけて、夏でしたかね、出けておった、あー、よりもまた、一段と、そういう内容がですね、おかげの内容というものが立派になっておる。しかもその、おかげをおかげとキャッチして、おかげをおかげと感じておる。是非一遍、あの、皆さんも、読んでごらんなさいませ。まあ、本当に感心致します。子供達が、こんなふうに育つならば間違いなかろうと。ね。子供達が言っておりますように、ね。僕達の一生の幸せの基礎、土台を少年少女会の時期に作らなければならんといったような、ね。その、願いを持っております。そして、それにこう、打ち込むことによってです、ね。子供でも、なるほど、そういうようなおかげを受けておるということ。ね。だから、その、そういうおかげを知らぬからと、こう言うておられるが、おかげはだから、あの、子供でも、打ち込んで、または、その気になって、修行させてもろうておると、おかげを受けておるという。だから、そのおかげを知っておる者は、私は、金光様の信心を頂いて、こうやって、お日参りでもしておる者なら、みんな、おかげを知らんことなかろうと、こう思います。どんなに考えても、人間の働きじゃない、力じゃない。これを神様のおかげと言わなければ、おられんというおかげを受けておると思うのです。けれども、その、そういうおかげを知っておるというだけでは、けれども私は、みんなここに、一年まさり代まさり、いわゆる、代まさりのおかげ、ね。無事達者で子孫も続き身代も出来と、しかもそれが、一年まさりにおかげを頂いていくと言うておられるけれども、そういうおかげを受けていないという事を、私は、思うときにです。これは、神のおかげを知らぬからということは、どういうことか。ね。神のおかげとはどういうことか。を、先ず、だから、知らなければならぬということが分かります。ね。だからその、結局その、おかげと、私共が言っておるおかげではなさそうだ。ね。本当に、万事の上に、ご都合、商売の上にも、お繰り合わせを頂き、健康の上にも、おー、おかげを頂き、人間関係の上にも、本当に、スムーズにおかげを頂いて、日々が立ち行く。その、私はおかげをですね、んー、もう、とにかく、金光様の信心すりゃ、おかげ頂くですよと言っておるようなおかげでは、この、おー、一年まさり代まさりの、おかげを受ける事ができると仰るようなおかげには繋がらないということ。ね。そういう、本当に人がびっくりするようなおかげを受けて、おかげを知っておっても、もう、子供の代には、ね。孫の代には、信心が絶えてしまうというところですらある。ね。おかげを知っておっても、その人一代のうちにでも、信心を止めたりする人もある。だから、ここでは私が、二、三日前に申しましたように、ね。教祖様はね、嘘を仰ってる筈はないと。ね。ですから、教祖様の、教えて下さっているような、私は、行き方にならせて頂いて、あり方にならせて頂いて、金光大神が言うて下さっておるような、おかげをです、私共がいただく。ね。そういう、いわば、教祖様が嘘を仰ってはいないという、その、実証ですね。お互い、一人一人が、その実証者にならなければならないという風に申しましたですね。そういう証を、私どもが立てなければならぬ。金光様が言うてござる通りだ。ね。こういう、おかげが受けられるという、私共が、その実証者、ね。証を立てる。
少年少女会の一人が、あー、書いております。ね。僕達が、こうやって信心させてもらってる。そして、そこにおかげを感じておる。ただし、残念なことは、家族のものが、信心がないことだというような事を書いておる人がおります。ね。それには、僕たちが、いよいよ、ね。信心にならせて頂いて行かなければならないことを、まあ、信心をさせて頂いておるものの、責任において感ずるという事を、いう意味のことを書いております。ね。特にこの、合楽部落の、おー、少年少女会の子達なんかは、まあ、参ってこんわけじゃないけれども、なら、子供達は、合楽の子供達は、毎朝参ってくるです。学校に行く前、必ず参ってくるです。もう、もうそれこそ、とにかくまあ、時間ギリギリのときなんかはもう、そしてからね。皆さん、ここに参ってきとるとを、拝みよるとを見てみなさい、もう、芯から拝んでいくです。そして、お取次ぎを頂くでも、もう、芯から頂くです。私が、二編ぐらい返事をしなければ、ここを、頭を上げようとはしませんですよ。こげんせんならんと、教えられたわけでもなかろうけれども、ね。子供なりにも、神様のこの、有難さ、尊さといったようなものが、段々分かっていきよる。ね。そして、そういう、おかげを、子供なりにも受けて行きよる。ね。けれども、僕達は、こげんおかげ頂よると言うても、それが、親達に通じないのが残念だと。家族のものが信心がないのが残念だと。それには、僕達が、本当に、良い信心を身につけて、言うならば、なるほど、うちの子供が、変わったと認めてくれるところまで、色々信心を進めていかなければならないといったようなことを書いています。ね。いわゆる、金光大神の言うておられることの、立証者になろう、証を立てようというのである。ね。
だから、そういう意味でなら、ほんなら、合楽に御神縁を頂いておる皆さんは、みんなおかげ、自分が、これはおかげと思おうておる、ね。これは間違いなしに、神様の働きでなくて、なんであろうかと思わせてもらえるようなおかげを受けておる。けども、皆さん、そういうおかげではですよ。そういうおかげでは、ほんなら、けども、ここには、繋がってないという事がです、ね。その人達が、代まさり、年まさり代まさり、ね。身代もでけ、ね。達者にもなり、といったような、おかげを受けていないところを見ると、ただ、そういうおかげではないことを、先ず知らなきゃならん。ここで言うておられる、神のおかげを知らぬから、互い違いになると。おかげがおかげにならないというように、その、言うておられますが、そういうおかげの受けられるという、おかげは、どういう事かと。ね。
次に、信心して、神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続くとこう言っておられる。そんなら、金光様のご信心を頂いてです、神の大恩を知らないものは、まあ、神の大恩といえば、天地の大恩ということにもなるが、ね。天地の大恩を知らぬ者はない。みんな話を聞く。ね。天地の御恩恵に浴しなければ、ね。これは人間だけではない。もう、生きとし生けるもの、全てがです。天地の御恩恵に浴しなければならないぐらいの事は知っておる。いや、信心をしなくても、天恩、地恩といったようなことは申します。知っておる。ね。ですからその、ここには、神の大恩を知らぬからと、こう仰る。なら、神の大恩を知っただけではいけない。それにはね。私共は、信心して、神の大恩を知ればと言うておられるから、これは、本当に、信心しなければ、神の大恩を本当に分からないということ。ね。だから私は、この七十八節を、今日は、ここんところに、絞らせてもらう。神のおかげを知れば、ね。または、神の大恩を知れば、一年まさり代まさり、年まさり、ね。の、おかげが受けられる。身代もでき人間もでき、しかもそれが、あー、次の、おー、時代にかけて、いよいよ、末広がりにおかげを受けていけれる、私共の、これは願いなのですから。それを、それが願いなのですから。ね。そういうおかげを頂くためには、ここの、おかげと、大恩と言うておられる、そこんところを、一つ本当に分からなければいけない。私たちは、大恩を知っておる。おかげも知っておる。今言う。子供達でも知っておる。少し、信心さしてもらや、おかげという事がはっきり分かる。ね。いわゆる、ご利益を知っておるというだけでは、いけないということが、ここで言うおかげというのは、まあ、ご利益ではないこ事が分かる。ね。神の大恩という事を言うておられるが、ね。理屈の上で聞かせて貰う。ね。確かにそれどこじゃない。天地の御恩恵がなからなかったら、それこそ、生きとし生けるもの全てが、その、生きる営みということすらが出来ないと。ね。天地の働きがなくなったら、天地のものが全部、枯死してしまう。枯れ果ててしまう。ね。ですから、それを知っておるというだけではいけない。皆さん、こうやって、こうしてここんとこを繰り返し繰り返し頂いておりますと、ほんなら、神のおかげて、こういうことじゃろうと、皆さんの心の中に、えー、思うておられるでしょう。はー、いよいよ、子孫繁盛のおかげの頂けるようなおかげを頂くためには、神のおかげを知らなきゃならんが、ご利益が分かるというおかげではいけない。そんなら、どういうおかげを、おかげと知らなければならないか。神の大恩は、自分も知っておる。お話を聞けば聞くだけ、それどこではないことが分かるけれども、その大恩ではない。私が今知っておるようなものじゃない。もっともっと、神の大恩と。ね。はー、もう、ご恩な、死んでも忘れませんと。と、こういうでしょう。ね。忘れんだけではいけない。知っただけではいけない。ね。そうすると皆さん、どういうことであるか、皆さんの心にも想像がつくだろう。
恩に私は、報いる事だとおもうですねえ。恩を知ったら、恩に報いる事。ですからこの、おー、恩を知らないという人は、これは先ず、本当の成功にはならないですね。ね。ただ、御恩な、死んでも忘れませんと言う程度のものじゃなくて、ね。その、死んでも忘れませんといった様な大恩にね、報いるという心がなかったら、成功は致しません。いわゆる、ここに、子孫繁盛へは続きません。代まさりのおかげは続きません。ね。これが、人と人との間においてもそうです。ね。あっちは自分の苦しい時に助けて貰うた。このことだけは忘れられない。あちらに何かがあった時には、このご恩を、いつかは帰さなければ、相すまん。そういう人でなからなければ成功いたしません。もう、あん時にちゃんとお礼ばしとるけんで、お返しをしとるけんで、ね。大恩というのは、そんな一遍、二編のお返しぐらいで、恩というものは、ね。切れてしまう物じゃない。ね。そこんところがですね、出来る人ならば、私は、教祖の仰っておられる、ここんところのおかげを受けられると思う。ましてその、神の大恩と、ね。ましてや、天地の大恩と、ね。その、大恩を自分の身を持っていただき、ね。身を持ってその、恩に報いる働き。ね。教祖様が、まあだ、あー、お百姓なさっておられるときに、村の色んな、お休み日など、みんなが、あー、その日は、まあ、ドンタク日として、休んで、ね。美味しいものでも作ったり、お酒でも飲んだりして、休んでおるときでも、やっぱり、こつこつとして、自分の仕事は、なさらないけれども、ね。道普請をなさったり、いわゆる、公共事業とまではいかんにしましても、そういうその、ところをなさったということです。今日はね。お休みの日ぐらいは、休まれたらどうですかと、人が言うと、ね。天道様は、ね。降っても照っても働き続けてござるのに対してです、遊んでおっては勿体ないと言うて、道普請をなさったと言うお話が残っておりますですね。いわゆる、神の大恩を、もう、暗に知っておられた。いわゆる、天道様の働きを知っておられる。天道様が、いわば、降っても照っても働き続けてござるのに、人間が、ただ、休んでおったんでは、天道様に申し訳がない。ね。知っておる人もあるけれども、それに報いるということの出来る人は、数少ない。その、報いるという心がです。私は、ま、いわゆる、奉仕の心なのです。ね。神様に対するご恩返しは、私は、奉仕することだと思う。ね。
甘木の初代の安武先生なんかは、そういう意味合いにおいて、もう、いよいよ、神の大恩を知っておられた方と、私は思いますですね。神様の大恩を知っておられたから、ああいう、体得を受けられた。おそらくは、甘木の親先生の目からご覧になると、ね。枯れ葉、枯れ枝一枚でも、神様の御恩徳が満ち溢れておる。神様のお働きが満ち溢れておる。ね。ようにご覧になり、また見えられたであろうとこう思うのです。だから、枯葉、枯れ枝一枚でも、お粗末には出来ないとして、大事にされた。ね。いわゆる、そこんところが、信心してと、こう言うておられる。信心して神の大恩を知ればと言うておられる。信心しなければ、そこが分からん。ね。一掬いの水の上においても、ほんとに、神様の、いわゆる大恩が、その水の中に、もう溢れておる。だから、それを大事にされる。ね。だから、ああいう体得を受けられたと私は思うのです。ね。そこんとこは、信心をしないとです、その、例えば、一遍どうり知っておるというだけじゃなくて、ほんとにそこに、神の姿を、その水の中に見る。枯れ枝、枯葉の中に神の姿を見る。神の働きを感ずる。という事になって来ないのです。と、私は思うのです。いよいよ、神の大恩を知る。いわゆる、天地の大恩を知らせてもろうて、その天地の大恩に対しまつってです、私共が、ね。向こうに奉る生活。ね。いわゆる、神恩報謝の生活に、いよいよ、なっていかなければならない事が分かります。言葉で言えば、誰でも使う言葉。ね。神恩報謝の生活。神の恩に対して、それに、ね。報い奉る、感謝する心。そういう、毎日であらなければならない事をです。ね。みんな、知っておりますけれども、それを実際に、現していくという人は、ごく稀である。だから、おかげう受けていく人は、ごく稀である。ここで言うておられるおかげ、ね。いわゆるまた、いわゆる、亡恩の生活。ね。恩を忘れた生活。知っておりながら、それをなさないなら、亡恩の生活と同じこと。恩を恩とも感じない。ね。知っておっても、いわゆる、信心しないと、天の恩、地の恩というだけであって、それに報いようというような心が生まれてこない。ね。
奉仕、ね。今日は、えー、造園の、おー、植樹の奉仕の、今日は第一日目、今日から始まるわけですが、ね。それをね、ただ、本当に奉仕にならなければ駄目です。ね。ただ、お付き合い、ね。的なものではなくて、ね。日頃頂いておる大恩を、思えば思うほど、それにせめて、こうでもして報いていなければおられないというものが、奉仕の姿に現れてこなければ、私は駄目だと思う。ね。そこに、真心いっぱい。ね。の、奉仕が出来るわけではないでしょうか。ね。だから、ここんところを、ようくよく、お互いがね、信心して、神の大恩を、いよいよ、もっともっと深く分からせて貰う。ね。例えば、何気なしに見過ごしておったものの中にでもです。ね。神の大恩が、ね。輝いて見える。溢れて見える。ようにならせて貰わなければ、私は、今日のここの、子孫も続き身代もでき、一年まさりのおかげになって来ない。ということ。ね。そすと、ね、この神のおかげを知らぬから、互い違いになると言うておられる。神のおかげということは、私が、ずーっと申しましたから、皆さんが、想像がついておるだろうとこう思う。神のおかげを知らぬからとは、あん時に、あげな御利益を頂いた。なるほど、神様のおかげだなと言ったような、おかげではないという事を申しましたから、皆さん、分かったでしょうか。神のおかげとはどういうことか。ね。これはね、おかげと感じる人はおかげ、おかげでないと感じる人はおかげでないのですから、やはり、おかげと感じれれるおかげをいただかにゃいけん。ね。それを、私は、ね。一切が神愛と言うております。ね。一切が神愛、ね。私共の上に起きてくる、例えば、ね。いわば、災難でも、ね。えー、病気でも、ね。いわゆる、困ったというような事、まあ痛いと思うような事。ね。恥ずかしいと思うようなこと。様々なことが私共の上に起きてくる。ね。それを、例えばですね。えー、神愛と分からせて頂くところに、初めて神愛であるという事になるのです。ですから、それを神愛でも、神愛と分からなかったら、やはり、難儀は難儀です。ね。病気は病気です。ね。形の上には、病気という事に現れておるけれども、実際は、それは神愛の現われだということは、ね。私共は、それを、ね。神愛と悟らなければ神愛にはならない。神の愛にはならない。いわゆる、ここで言うておられる神のおかげを知らぬから、ね。これはどういう事かと言うと、教祖の言葉を借りると、あれもおかげであった、これもおかげであったというおかげなのです。あれもおかげであった、これもおかげであったという中には、なるほど、御利益も入っておるだろう。けれども、それはご利益ではないように思うておった。ね。むしろ神様を恨みたいような思いすらあった。ね。本当に、ああいうことがなかったら、今頃はもっとましじゃったのにと思うような事もあったけれども、よくよく分からせて頂けば、あれもお陰であったと分かることなのです。いわゆる、あれも神愛であったと、これもやはり、神愛だと、ね。分かる。そういうおかげを知ればということなのだと私は思うのです。ただ、おかげを受けて、ね。なるほど、神様の働きとは素晴らしい。万事万端の上に、お都合、お繰り合わせというものは、本当に、恐れ入ってしまうというようなおかげは、まあ良い。少年少女会の方達でも、ね。日々、こうやって、信心の稽古をしておる人達は、もう日々そのおかげを体験していきよる。ね。けども、それではない。いわゆる、ご利益ではない。ね。私共は、ご利益ではないと思うておる事柄に対しましてもです、ね。それを、本当の神様の、いわゆる、氏子を可愛いという、私におかげを下さろうとする神の働きであると知らせてもらう。それをここでは神のおかげと言うておられるのであると思うのです。そういうおかげをおかげと分かり、そういう、神の大恩、私が只今申してまいりました、神の大恩という事をです、分かって、その大恩に報い奉るというような信心が出来てまいりましたら、間違いなく、ね。一年まさり代まさり、子孫も続き、ね。達者でというかね。無事達者で子孫も続き、身代もでき一年まさり代まさりのおかげを受ける事ができる。そういうおかげを受けて、初めて、金光大神の仰っておられること、言うておられることを、ね。いわゆる、実証していくことが出来る。金光様が嘘は言っちゃない。こういうおかげが受けられるという実証。ね。その証を立てるときにです、子供達が言っておるように、僕だけが信心では相すまん。家族のものに信心をして貰いたいと思うけれども、家族のものが信心がないのが残念だといっておるようにです、そういう証を立てていくところにです。家族のものも付いてこなければおられない。と、いう事になるのじゃないでしょうかね。御理解七十八節を、今日は、神のおかげを知らぬから互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、ね。無事達者でと言うておられる、私はここの、神の大恩と、または、神のおかげということの、本当のおかげ。ね。神の大恩を知ったら、どうあらなければならないか、ね。それを、私は奉仕の心、ね。と、私は申しましたですね。ここんところに、今日は絞って、えー、御理解いただいたわけです。どうぞ、いよいよ、神のおかげを知るために信心せにゃいけん。ね。神の大恩を本当に分かるために、信心しなきゃいけん。ね。そして、それに報いる生活こそが、神恩報謝の生活だと。本当の意味においての、神恩報謝の生活が出来れば、ね。互い違いになるようなことはない、年まさり代まさりのおかげが、そこに約束される。教祖のお言葉を、いわば、裏づけすることが出ける。そういうおかげを受けるということが、私共の、それは、金光教の信奉者であるところの責任においてです、そういうおかげを一つ、打ち立てていかなければいけないと思うのです。どうぞ。
中村良一
2005年5月8日